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新年とかファックだね!

心に余裕がないとそれを趣味でカバーしようと躍起になり、そこでまた体力を使い、さらに疲れて次第に生活が荒んでくる。そんなサイクルが生じてます。

最近、勢いでトーンゾイレを作ったんですが、あんまり感動できる音ではなく失敗したかなーと暗澹たる気分でした。(トーンゾイレとか投資額もそれなりになるので失敗もデカイ)
しょうがないからいろいろ実験して、4本作ったうち2本のゾイレ?をサブのホーンシステムのミッドにしてみたらなかなかいい感じになりました。
余ったゾイレでもう1システムでっち上げる方向に行くか、あるいは別の活用法がないか検討中です。
IMG_682011.jpg

私のスピーカークラフトはとにかく短期間で、手間を省いて、省スペースで、と言うエコスタイルなんで、今回のトーンゾイレも、板切れに穴を開けて100均の食器トレイを貼り付けたというハリボテです。

このブログもそんな感じですなあ

とりあえず西暦という枠に囚われて年内にトーンゾイレを急造しちゃった感があるので、もう少し腰を据えてオーディオに取り組むと言うのが2018年の目標ですかね。(←もう西暦の枠に囚われてるよヽ(・ω・)/ズコー系のやつ)

でもやっぱり時間的な制限がないと目標は組めないんで、とりあえず、冬のうちにある程度なんらかの着地点を見つけたいと言った感じですな。
普通、着地点を決めないで飛び立つものではないんですけどね……
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自作4号、居間に異動

私は、オーディオをやっていく上で、選択肢となることに「どういうスタイルにして行くか」と言うのが、あると思うのです。
音質重視か、コスト重視か、見た目重視か、スピーカークラフト重視か、自作アンプ重視か、とか、いろんなスタイルがあると思うんですが、それが結局、その後のオーディオ趣味の交友関係、ひいては他者からの評価に繋がってくると思うんです。まあ、オーディオの本質は音質ですので、自分が納得行く音質になっていれば問題ないのですが、さらに掘り進めると、やっぱり自分の好きな音質というものも、いろんな経験、他者とのやり取りがあった上で形成されるものだと思うんです。
いきなり霊的に、生まれた時点で「この音質がオレにとっていい」って言うのも、なんか人体の仕組みで耳小骨の大きさやら、聴覚神経のDNAやらなんやらで、あるにはあるもんだと思いますが、言葉と同じで、経験によって形成される部分が多いんじゃないかなと思ってます。
人との関わりでオーディオの方向性も変わってくる、ならば主義・スタイルを持つことによって、行く道もスムーズになったりするのではないか、と言う考えです。

今の自分のスタイルは、もう何でもアリすぎて方向性がないと思って石田式BHBSを撤去したのですが、これは石田さんにオサラバを告げたわけではなく、単に玉石混淆状態の現状からとりあえず元に戻そうと言う選択であって、また出発点に戻った感じです。今後ハリボテ38cmに飽きたらまた戻すかもしれませんし、Reference1を左遷させる可能性だってあリます。

と言うか、今日、石田式BHBSを居間に持っていったのですが、昨日は客間に置いていて、明日もしかするとまた自室に戻すかもとかそんな不安定な状態ですね。
今の部屋の画像をブログにうpしたいですが、撤去した裏からホコリがごっふぉーと出てきて、とりあえず掃除しないと見せられません。

ブーレーズの死・SMAPの解散

作曲家としてのピエール・ブーレーズ(1925-2016)は、哲学者、社会学者のテオドール・アドルノ(1903-1969)も評価していました。
アドルノを読みふけっていたのはかなり前なのでどのように評していたかは全然覚えていないのですが、確か『美の理論』と言う本で、ベートーヴェンやストラヴィンスキー、シェーンベルクなどと同じ文脈の中に、ブーレーズのル・マルトー・サン・メートルのことが書いてあったと思います。
「美の理論」が書かれていたのは1960年代後半で、ブーレーズが生まれたのが1925年ですから40代ですでに音楽史に直結していたんですね。最近の作曲家にしては若くして大成しました。
ですが、今後アドルノが忘れ去られる事もありえるわけで、現にアドルノも分類される大陸哲学自体の地位がかなり終わってる感じなので、それを土台に活躍していたブーレーズもヤバくなってるわけです。
最近の音楽史の状況は、私は疎くて、スペクトル楽派がもう使い古されてしまって、再びロマン派回帰的な風潮になってる感じかなーとしか知りませんが、もうほとんどに歴史的・文化的文脈から外れちゃってるんじゃないかな、と思います。そして、その終止符としてブーレーズの死が来てしまったのかなと。

タイトルにSMAPの解散を入れたのは聖/俗の二項対立を表したのではなく、現代の音楽界では似たような重さの事柄になってしまったな、という意味合いですな。
この間、アマゾンプライムが定額聴き放題サービスに参入しましたが、その脈絡の中でこの事柄があるのか、あるいはこれを出発点としてまた新しい方向に音楽が行くのか、あるいは全く関係無いのかw、いろいろ気になるところです。





オーディオとの向き合い方

前回の記事のタイトルが投げっぱなしな感じなので、今日はそれを回収しつつ、今回のタイトルに結び付けたいと思います。
例によって、あまり御託を並べても誰も読んでくれなくなるので手短に。

原音再生が当たり前のように最終目的とされていますが、そもそも原音とは何なんでしょうか。
ストラディバリウスは原音で現代ヴァイオリンは原音でない? あるいはフォルテピアノは原音でモダンピアノは違うのでしょうか。オリジナル楽器は原音でしょうか。両翼配置は原音じゃない?
もしくはシベリウスのフィンランディアはフィンランドで聴いてこそのものでしょうか? ベートーヴェンの田園は絶対音楽だからどこでもいいとか? クセナキスのペルセポリスとかどうなんでしょうね。
たとえば手近なところで紅白歌合戦を例にしてみると、あの音楽体験のリアリティはその年の12月31日のテレビの前によって得られるもので、NHKの会場が本物だと思う人は偏屈でしょう。

まあ、音楽のリアリティなんてのは人それぞれだと思います。
今はインターネットのおかげで言論というものの価値が暴落してるんで、規範的なセンスと言ったものも希薄になっています。評論家の権威も消えつつあるのが現状です。
そういった環境の中、できるだけ内輪内輪のコミュニケーションを避け、公明正大に明快な言論を発していくべきであるというのが、私の考えるオーディオとの良い向き合い方だと思います。

音楽のリアリティ

某高級スピーカーを一早く納品された方のブログを読んでいたら、こんな書き込みを見つけました。

>ベテランの大先輩方からは、「オーディオ以前に、音楽との向き合い方から勉強してください。今は、全くダメです」と、厳しいアドバイスをいただいております。

ちょっと気になったので、ブログネタにしてみようかなと。
ざっとですが個人的見解です。

■論点1
ベテランの大先輩というのはただの偏屈な頑固爺さんなのかもしれない。
→電車内でマンガを読んでいる自社の社員を目撃し、解雇したとか言う新聞投書が最近ありましたが、その手あいの人の妄言説。

■論点2
ブログ主の方の音楽との向き合い方が実際オカシイのかもしれない。
→もし佐村河内守の大ファンで追っかけをしていた、とかだったら確かに音楽との向き合い方を勉強しろと言いたくなる気持ちもわかる気がします。

■論点3
そもそも正しい音楽との向き合い方というものが社会通念として存在するのか。
→そう言った考え方は人文学的文脈で言うところのニーチェの「神は死んだ」から、アドルノの「アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である」、「「大きな物語」の終焉」、そしてインターネットという新しい批評空間の誕生とともに、次第に消えて行っているものだと思います。(もっと遡るとバッハやベートーヴェンの出現とか、他にもいろんな節目はあったでしょうね。)

■論点4
単なる妬みじゃないのか。
→本人に訊いてみないとわかりません……

■論点5
そう言った言動は高慢か。
→むしろ、自分よりずっと経験のある人の言葉を傍から口出ししている私こそ高慢です。

ですが今の時代、老若男女問わず音楽離れがすすんでいるのに向き合い方を勉強しないといけないというのは酷な話ですぜ。

プロフィール

Abbe Gelinek

Author:Abbe Gelinek
DAC:HEGEL HD25
AMP:HEGEL H80S/UESUGI U・BROS−24
SP:KEF Reference 1/TangBand W8-1808+Dayton AMT2-4 石田式BHBS/Fostex T90A+Fostex H400+JBL LE85+Dayton RSS210HO-8+Fostex CW250A/
CDP:TEAC PD-H600
HPA:nuforce iconHDP
HP:AKG K701/AKG K601/SENNHEISER HD650
POWER:KOJO TECHNOLOGYAray MKII

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